カテゴリー: 麻酔蘇生学
麻酔の危機管理 原著2版
1版
David M. Gaba 原著
Kevin J. Fish 原著
Steven K. Howard 原著
Amanda R. Burden 原著
宮坂清之 訳・補遺
赤沼裕子 訳・補遺
吉田 奏 訳・補遺
岸本陽子 訳・補遺
宮坂勝之 訳・補遺
定価
11,000円(本体 10,000円 +税10%)
- A5判 608頁
- 2022年11月 発行
- ISBN 978-4-525-30931-2
周術期・周麻酔期の患者管理,危機的事象の回避・対処に携わるすべての麻酔科医・看護師へ
周麻酔期の危機管理の原則と事象ごとの対処法の会得を目指す臨床麻酔従事者から,教科書ならびに実践書として高い評価を得ている「Crisis Management in Anesthesiology」第2版の翻訳版が登場.日本の臨床現場の実情に即した訳注・訳者附記も充実し,今すぐ現場で使える知識やスキルに変えられる情報が詰まっています.
本書では,刻一刻と変化し続ける患者状態・状況のなかで,どのように立ちふるまい,情報を得て,共有し,周囲と連携していくかの心構えや,コミュニケーションのとりかた・実践法についても解説.また,効果的な教育法についても紹介し,指導者にも役立つ内容が満載です.
周術期・周麻酔期・救急分野での患者管理,危機的事象の回避・対処に携わる,すべての麻酔科医・専攻医・看護師・薬剤師・技師および関連領域の医療者に,心強いよりどころになる一冊です!
- 訳者序文
- 第2版の序
- 目次
- 書評
訳者序文
本書には,スタンフォード大学とその関連病院で,長年の診療を通して数々の現場や修羅場も経験してきた先人たちの知恵が凝縮して注ぎ込まれている.記載されている内容は必ずしも大規模な臨床研究で検証された最新のエビデンスに基づくものではないかもしれないが,事象発生時に現場で麻酔従事者がリアルタイムにとるべき具体的な行動について,文献で調べても出てこない現実味のある手順を例示してくれる.
初版が出てからの約30年間で手術や麻酔の技術は大きく進化している.麻酔薬や麻酔機器の性能および選択肢,モニターや記録システムなども確実に充実してきている一方で,技術以外の人的要因による事故が絶えない.本書では航空業界の知見が多く紹介されているが,これは1970年代に航空技術の進化とともに人的要因による大事故が連発したことに由来する.事故の教訓を真摯に受け止め,業界を挙げて対策に乗り出した結果,定期的な危機管理教育やシミュレーション訓練の必須化などにより高水準での安全運航を現在も維持している.われわれの業界も改めて見習うべきだろう.第2版では危機管理の理論に加えシミュレーションを筆頭とした教育法についても詳細な記載が追加されており,学習者・教育者とも参考にできる内容になっている.
一般的に重大な麻酔事故の頻度は少ない.しかし,つねに安全な麻酔を心がけていても,ある程度の臨床経験を積むと必ず何らかの事例に遭遇してしまう.実際,本書に記載されている事象の多くに訳者らも遭遇した経験がある.そんな経験をする前,またはしてしまった後に,どう対応するのがよかったのか,他にできることや,考えられる原因はなかっただろうか…と学ぼうとする者にぜひ本書を手に取っていただきたい.
2022年9月
訳者を代表して
宮坂清之
初版が出てからの約30年間で手術や麻酔の技術は大きく進化している.麻酔薬や麻酔機器の性能および選択肢,モニターや記録システムなども確実に充実してきている一方で,技術以外の人的要因による事故が絶えない.本書では航空業界の知見が多く紹介されているが,これは1970年代に航空技術の進化とともに人的要因による大事故が連発したことに由来する.事故の教訓を真摯に受け止め,業界を挙げて対策に乗り出した結果,定期的な危機管理教育やシミュレーション訓練の必須化などにより高水準での安全運航を現在も維持している.われわれの業界も改めて見習うべきだろう.第2版では危機管理の理論に加えシミュレーションを筆頭とした教育法についても詳細な記載が追加されており,学習者・教育者とも参考にできる内容になっている.
一般的に重大な麻酔事故の頻度は少ない.しかし,つねに安全な麻酔を心がけていても,ある程度の臨床経験を積むと必ず何らかの事例に遭遇してしまう.実際,本書に記載されている事象の多くに訳者らも遭遇した経験がある.そんな経験をする前,またはしてしまった後に,どう対応するのがよかったのか,他にできることや,考えられる原因はなかっただろうか…と学ぼうとする者にぜひ本書を手に取っていただきたい.
2022年9月
訳者を代表して
宮坂清之
第2版の序
私たちが初版の序文を書いたとき,この書籍が麻酔安全の世界の定番テキストになるとは考えてもいなかった.本書の初版は,今日でも麻酔科学やシミュレーション教育の世界では幅広く読まれ,引用されている.同時に,改訂第2版が世に出るまでに20年を要することになるとは思ってもいなかった.これは画期的かつ優れた内容を初版に込めた筆者たちの優れた先見の明によるものであり,結果としてこの20年余の風雪に耐え,読み続けられた.したがって,初版の序文の内容はいまだに新鮮に受け止められる.ただ,残念なことに,私は今この第2版への序文を一人で書いている.初版の序文の共著者であり,患者安全啓発の偉大な先達であり,現在に続く麻酔患者安全の道筋をつくったEllison(Jeep)C. Pierce, Jr.先生が2011年にご逝去なさったからである.彼の貢献もあり,麻酔による偶発症やリスクは低減され,現在麻酔の安全は大きく前進した.
しかし私たちが目指す麻酔の安全への到達点は遙かに先であり,戦いに終わりはない.これが,第2版が必要とされた理由でもある.麻酔の安全性向上を目指していると,各場面で,あるいは全体を通しても,いわば長い闘病生活を思い起こさせる.上手くいかないことは本当にたくさんある.麻酔患者安全財団(APSF)の設立理念である「麻酔で誰も害を受けない社会の実現」のためには何をすべきかを,すでに知っている読者もいると思うが,本書で初めて学ぶ読者もいると思う.
この20年の間に医療は様変わりした.だからこそ,この先駆的な教科書にも改訂が必要になったわけである.ただ,初版で提示したいくつかの提案は社会に受け入れられたものの,いまだに十分には実行されていない.例えば,麻酔科医の交代,あるいは治療主体の移行などに伴う「申し送り」(hand-off)は,いまだに実施できていない取り組みの典型例である.また,シミュレーション教育での「振り返り考察」(debriefing)のように,まだその重要性が十分に理解されていない事例もある.これについては本文でも述べるが,私は「振り返り考察」こそシミュレーション教育の有効性を高めるのに最も重要な手段だと考えている.
初版では約80事象の麻酔危機事例を取り上げたものの,20年が経過して改訂あるいは追加する必要が生じ,ついに,この改訂版では99事象が取りあげられるに至った.初版に掲載したすべての事象(一部に名称を変えたものもある)はもちろん,25年前には認識されていなかった事象(手術期視覚喪失)や,対応が体系化されていなかった事象(急性局所麻酔薬中毒)など,いくつか追加されている.第2 版で何が新しくなったかの詳細は,「はじめに」を参照してほしい.
麻酔分野に限らず,医療での患者安全の意識はこの20年で劇的に変化した.とてもその全てを網羅しようとは思わないが,本書では,安全に関わる最も重要な概念の一つとして「危機処理能力管理(Crisis Resource Management:CRM)」を紹介している.CRMは,スタンフォード大学の麻酔科教育チーム(本書の筆者ら)が航空業界から取り入れた考えで,やがて麻酔科以外の他の医療領域でも取り入れられるようになった.「CRM」は,今や患者安全が語られる際によく聞かれる言葉になっている.CRM は単に危機的な状況へのよい対応法というだけでなく,危機に直面したときに個人が単独で患者に最善を尽くすのではなく,チームで最善を尽くすことを優先するという新しい考えかたをもたらした.現在では,CRMとチームアプローチの考えは幅広い分野で教えられるようになったが,現場ではまだ十分に実行されていない.しかし,臨床で実践される時代はすぐに来ると確信している.
[訳注:CRMは「危機時資源管理」と翻訳されることもある.もともと航空業界では搭乗員資源管理(Crew Resource Management)の意味で用いられていた言葉がある.そこにCrisis の意味が込められ,単に人的資源,物的資源の存在だけを意味するのではないことから,本書では初版から「処理能力管理」を使ってきており,以後にでてくるACRM(AnesthesiaCrisis Resource Management)に対しても,「麻酔危機処理能力管理」とした]
私がそう信ずる背景には,麻酔科のCRM トレーニングにシミュレーション教育を取り入れるのが一般的になってきた現状がある.この手法を最初に導入したのも,やはり本書初版の筆者らである.CRM と同じくシミュレーション教育も,一般的な教育ツールとして,あるいはとくに患者安全を高めるツールとして,医療安全の世界ではさまざまに取り入れられてきている.例えば米国では,2000年以降に麻酔科専門医資格を得た麻酔科医は,資格の維持のためにはMOCA(Maintenance of Certification in Anesthesiology)プログラムに登録が必要である.このプログラムの,最も先進的で大胆,かつ有効な構成要素の一つは,2007年以降に資格を取得した麻酔科専門医は,資格更新の際に1日コースのシミュレーションを用いたCRMトレーニングへの参加が必要とされたことである.私が25年間シミュレーション教育に携わった経験から言えば,麻酔科医はシミュレーション教育の経験の価値を理解するにつれ,それが義務であるなしにかかわらず,もっと頻回のトレーニングを積極的に受けたいと希望するだろうし,実際にそうなってほしいと思う.また,完全に手術室のチームを再現したシミュレーション教育も,まさに広まりつつある.
私は,CRMとシミュレーション教育の考えかたが広まれば,患者安全は改善し続けてくれると思っている.今では患者安全運動はすっかり定着し,人々は習い性のように「安全」を口に出すようになっている.麻酔科学は,患者安全への意識がとくに強い専門領域の先駆けと考えられており,また実際そうである.患者安全においては,麻酔科領域が試合開始のボールを蹴り,他の領域もそれに続くかたちで進歩してきている.現在,麻酔は安全である.麻酔に関わる訓練,人材,技術,薬剤の開発・進歩と,そして最も大切な患者安全に対する姿勢がそうした結果につながっている.
現在では,これらの患者安全の要素は,より広い概念である高信頼性組織(high reliabilityorganization:HRO)概念の一部であると理解されている.HROは,本書の筆者であるDavid M Gabaらにより1980年代に麻酔や医療の領域に導入された概念である.本書の初版が出版された当時は,まだ十分にその概念は出来上がっていなかったが,今では完成し,活用されている.同様に,「生産性圧力」(production pressure)という言葉も25年前にはあまり広く使われていなかったが,今では麻酔科診療や偶発症が語られるときにはしばしば用いられるようになった.これも,本書の筆者らが麻酔科学や医療分野に取り入れた概念である.本書ではさらに,初版出版以後に幅広くかつ精力的に研究が進められた,疲労やその他の作業能力へ影響する要因の安全への影響についても学習できる.加えて,危機管理でのcognitiveaid(認知補助材)の使用もこの20 年の間に萌出した手法である.これも同じく航空業界由来の考えであるが,航空機の場合と同様に,麻酔科でも緊急時のルーチン対応マニュアルというかたちで使用され,これから幅広く普及することになるだろう.
多分にバイアスがかかった私の意見ではあるが,この度の改訂で多くのページが割かれた最も重要な概念は,シミュレーション訓練に関連した内容である.私たちが必要に迫られて緊急時に備え行っている処置や治療はすでに当たり前の医療にも思えるが,なかにはまだランダム化比較試験(RCT)や経済効率分析が必要なものもある.幸いなことに,航空業界では安全性を高めるために,不可能と思われる目標の達成(すなわち完璧な仕組みの出来上がり)を待たず,訓練(シミュレーション)をしっかり実施する方策をとった.この決定が今の民間航空業界の驚異的な安全を支えていることは間違いない.
初版が出版された1994年当時,シミュレーション教育は未だ萌芽期であった.そして麻酔科領域はそれを先駆的に取り入れていった.シミュレーション教育は今では麻酔の研修にも組み込まれており,CRM研修の主要な部分や麻酔に関するあらゆる面はこれからも発展して行くことだろう.シミュレーション教育が上手く機能し,周術期の医療でまだ実現できていない根本的な医療文化の変革に貢献するためには,真に効果的な「振り返り考察」の手法が広く普及しなければならない.本書では,私にとって最も重要な新章で,さまざまな「振り返り考察」の方法を解説した.まだ完全に理解されず,認識されていないことは,効果的な「振り返り考察」を用いたシミュレーション教育が,とりわけ初めてシミュレーション教育を受ける周術期医療チームに行われた場合,単にCRMを改善する以上の効果をもつ点である.シミュレーション教育は,しばしばみられるチーム内の連携不備や,そこから派生する重大なインシデントにつながる“潜在的な誤り” を改善できる可能性をもっている.チームメンバーとの関係や連携状況の改善のためには,個々のメンバーの問題事象への関わりや,自分のとった行動やチーム連携に関わる行動の反省を,お互いにオープンに議論することが重要であるだけでなく,それらの議論を経て職種や職域を越えて連携する必要性の理解を深めていかねばならない.こうした状況は,教師と学生,あるいはインストラクター(ファシリテーター)と参加者の信頼関係に基づいた,自由で安心な討論の場,すなわち「振り返り考察」(デブリーフィング)によってのみ築かれていく.
心理的に自由で安心な討論の場を設け,本当に有効な「振り返り考察」を行うというのは,言葉で言うのは簡単だが実現はそう容易ではない.しかし,その重要性は想像以上に重い.学習はしばしば認知的行動(新しい知識を覚えることなど)だと思われがちであるが,自我同一性(self-identity;すなわち,自分はよい医師になれるか? よい看護師であるか? など)や感性(精神的に圧迫されていないか? 協力関係をつくれているか? など)を磨く場でもある.こうした概念は「振り返り考察」の章(第4 章)でより具体的に解説するが,それらの概念はすべて従来の教育学のみに基づくわけではない.シミュレーション教育や患者安全教育には,社会科学の理論や研究成果を取り入れる必要性も含め,まだまだ改善の余地がある.振り返り考察の進歩に最も貢献したのは,Argyris らによって提唱された,「個人と組織を軸にして不調和や問題発生のメカニズムや解決を説き明かす」というアクション・サイエンス(ActionScience:行動科学)概念の応用であり,これが本書にも登場する“debriefing withgood judgment”につながった.(これらの研究は私の所属するマサチューセッツ総合病院の医療シミュレーションセンターで行われたため,私の意見に偏りがないとは言い切れないが)基本的な考えは単純だが強力で,振り返り考察を通して,教える側と学習者の真の好奇心,追求心,自分の行動への内省心が高められる.最も重要なことは,「振り返り考察」を行えば,一緒に働き学ぶすべての個人を尊重しようと考え,また,まわりの人々もそれに応えて最善を尽くしてくれていると感じられるようになることである.彼らが間違えたり,期待した作業を遂行できなかったりした場合でも,まずは結果を受け入れ,なぜそうしたのかの理由を一緒に考える.こうした相互信頼と探究心を根づかせることで,シミュレーション教育は患者安全に大きく貢献する.
麻酔に関わる医療者は,初版をすでに手にとった人も含めて,本書をただ読むだけでなく読み込み知識を習得するべきである.また本書で取りあげた症例や対応の要点は(それらをどのように用いるかはさらなる検討は必要だが),読者の施設の実情に合わせて,緊急事態対処用のマニュアルに取り込まなければならない.もし私があなたの患者であれば,本書の原則が身についたか聞くことだろう.もし答が「Yes」でなければ,私は信用できる他の医療者に私の命を託すことにする.
ハーバード大学医学部麻酔科教授
医療シミュレーションセンター所長
マサチューセッツ総合病院麻酔・集中治療・疼痛管理科
Jeffrey B. Cooper, Ph.D
訳者補遺1:「デブリーフィング」を本書では「振り返り考察」としたが,これはシミュレーション教育の肝である.もともと軍隊などで行われる「簡略化した報告」といった意味の言葉であり,それとの区別を明確にするため,ここではカタカナ日本語を避けた.デブリーフィング(振り返り考察)がシミュレーション教育では単にフィードバックを意味するわけではないことは,本書を通じて理解されることと思う.
訳者補遺2:「Action Science」の訳を「アクション・サイエンス」として,不本意ながらカタカナ標記にしたのには理由がある.それは,ごく自然な翻訳語である既存の「行動科学」とは明らかに異なる概念であるためである.従来から使われてきている行動科学や行動心理学(behavioral science)が人類や社会全体に共通するような傾向(成人学習理論など)を扱うのに対し,アクション・サイエンス(Action science)では,より個別の,個人の行動の背景にある動機や組織の影響,メンタルモデルの解釈などを通して行動変容を促す方法を探るという要素が中心である.
訳者補遺3:「よい判断に基づく振り返り考察(debriefing with good judgment)」とは,マサチューセッツ総合病院で筆者らが長年にわたり行ってきた,① シミュレーション開始前に学習目的を明確にする,②「振り返り考察」で期待される内容を明確にする,③ つねに好奇心をもち参加者にフィードバックは与えるが,決めつけはしない,④「振り返り考察」セッションを,反応,分析,まとめの三部で構成するという4つの原則から構成される振り返り考察の手法である.
しかし私たちが目指す麻酔の安全への到達点は遙かに先であり,戦いに終わりはない.これが,第2版が必要とされた理由でもある.麻酔の安全性向上を目指していると,各場面で,あるいは全体を通しても,いわば長い闘病生活を思い起こさせる.上手くいかないことは本当にたくさんある.麻酔患者安全財団(APSF)の設立理念である「麻酔で誰も害を受けない社会の実現」のためには何をすべきかを,すでに知っている読者もいると思うが,本書で初めて学ぶ読者もいると思う.
この20年の間に医療は様変わりした.だからこそ,この先駆的な教科書にも改訂が必要になったわけである.ただ,初版で提示したいくつかの提案は社会に受け入れられたものの,いまだに十分には実行されていない.例えば,麻酔科医の交代,あるいは治療主体の移行などに伴う「申し送り」(hand-off)は,いまだに実施できていない取り組みの典型例である.また,シミュレーション教育での「振り返り考察」(debriefing)のように,まだその重要性が十分に理解されていない事例もある.これについては本文でも述べるが,私は「振り返り考察」こそシミュレーション教育の有効性を高めるのに最も重要な手段だと考えている.
初版では約80事象の麻酔危機事例を取り上げたものの,20年が経過して改訂あるいは追加する必要が生じ,ついに,この改訂版では99事象が取りあげられるに至った.初版に掲載したすべての事象(一部に名称を変えたものもある)はもちろん,25年前には認識されていなかった事象(手術期視覚喪失)や,対応が体系化されていなかった事象(急性局所麻酔薬中毒)など,いくつか追加されている.第2 版で何が新しくなったかの詳細は,「はじめに」を参照してほしい.
麻酔分野に限らず,医療での患者安全の意識はこの20年で劇的に変化した.とてもその全てを網羅しようとは思わないが,本書では,安全に関わる最も重要な概念の一つとして「危機処理能力管理(Crisis Resource Management:CRM)」を紹介している.CRMは,スタンフォード大学の麻酔科教育チーム(本書の筆者ら)が航空業界から取り入れた考えで,やがて麻酔科以外の他の医療領域でも取り入れられるようになった.「CRM」は,今や患者安全が語られる際によく聞かれる言葉になっている.CRM は単に危機的な状況へのよい対応法というだけでなく,危機に直面したときに個人が単独で患者に最善を尽くすのではなく,チームで最善を尽くすことを優先するという新しい考えかたをもたらした.現在では,CRMとチームアプローチの考えは幅広い分野で教えられるようになったが,現場ではまだ十分に実行されていない.しかし,臨床で実践される時代はすぐに来ると確信している.
[訳注:CRMは「危機時資源管理」と翻訳されることもある.もともと航空業界では搭乗員資源管理(Crew Resource Management)の意味で用いられていた言葉がある.そこにCrisis の意味が込められ,単に人的資源,物的資源の存在だけを意味するのではないことから,本書では初版から「処理能力管理」を使ってきており,以後にでてくるACRM(AnesthesiaCrisis Resource Management)に対しても,「麻酔危機処理能力管理」とした]
私がそう信ずる背景には,麻酔科のCRM トレーニングにシミュレーション教育を取り入れるのが一般的になってきた現状がある.この手法を最初に導入したのも,やはり本書初版の筆者らである.CRM と同じくシミュレーション教育も,一般的な教育ツールとして,あるいはとくに患者安全を高めるツールとして,医療安全の世界ではさまざまに取り入れられてきている.例えば米国では,2000年以降に麻酔科専門医資格を得た麻酔科医は,資格の維持のためにはMOCA(Maintenance of Certification in Anesthesiology)プログラムに登録が必要である.このプログラムの,最も先進的で大胆,かつ有効な構成要素の一つは,2007年以降に資格を取得した麻酔科専門医は,資格更新の際に1日コースのシミュレーションを用いたCRMトレーニングへの参加が必要とされたことである.私が25年間シミュレーション教育に携わった経験から言えば,麻酔科医はシミュレーション教育の経験の価値を理解するにつれ,それが義務であるなしにかかわらず,もっと頻回のトレーニングを積極的に受けたいと希望するだろうし,実際にそうなってほしいと思う.また,完全に手術室のチームを再現したシミュレーション教育も,まさに広まりつつある.
私は,CRMとシミュレーション教育の考えかたが広まれば,患者安全は改善し続けてくれると思っている.今では患者安全運動はすっかり定着し,人々は習い性のように「安全」を口に出すようになっている.麻酔科学は,患者安全への意識がとくに強い専門領域の先駆けと考えられており,また実際そうである.患者安全においては,麻酔科領域が試合開始のボールを蹴り,他の領域もそれに続くかたちで進歩してきている.現在,麻酔は安全である.麻酔に関わる訓練,人材,技術,薬剤の開発・進歩と,そして最も大切な患者安全に対する姿勢がそうした結果につながっている.
現在では,これらの患者安全の要素は,より広い概念である高信頼性組織(high reliabilityorganization:HRO)概念の一部であると理解されている.HROは,本書の筆者であるDavid M Gabaらにより1980年代に麻酔や医療の領域に導入された概念である.本書の初版が出版された当時は,まだ十分にその概念は出来上がっていなかったが,今では完成し,活用されている.同様に,「生産性圧力」(production pressure)という言葉も25年前にはあまり広く使われていなかったが,今では麻酔科診療や偶発症が語られるときにはしばしば用いられるようになった.これも,本書の筆者らが麻酔科学や医療分野に取り入れた概念である.本書ではさらに,初版出版以後に幅広くかつ精力的に研究が進められた,疲労やその他の作業能力へ影響する要因の安全への影響についても学習できる.加えて,危機管理でのcognitiveaid(認知補助材)の使用もこの20 年の間に萌出した手法である.これも同じく航空業界由来の考えであるが,航空機の場合と同様に,麻酔科でも緊急時のルーチン対応マニュアルというかたちで使用され,これから幅広く普及することになるだろう.
多分にバイアスがかかった私の意見ではあるが,この度の改訂で多くのページが割かれた最も重要な概念は,シミュレーション訓練に関連した内容である.私たちが必要に迫られて緊急時に備え行っている処置や治療はすでに当たり前の医療にも思えるが,なかにはまだランダム化比較試験(RCT)や経済効率分析が必要なものもある.幸いなことに,航空業界では安全性を高めるために,不可能と思われる目標の達成(すなわち完璧な仕組みの出来上がり)を待たず,訓練(シミュレーション)をしっかり実施する方策をとった.この決定が今の民間航空業界の驚異的な安全を支えていることは間違いない.
初版が出版された1994年当時,シミュレーション教育は未だ萌芽期であった.そして麻酔科領域はそれを先駆的に取り入れていった.シミュレーション教育は今では麻酔の研修にも組み込まれており,CRM研修の主要な部分や麻酔に関するあらゆる面はこれからも発展して行くことだろう.シミュレーション教育が上手く機能し,周術期の医療でまだ実現できていない根本的な医療文化の変革に貢献するためには,真に効果的な「振り返り考察」の手法が広く普及しなければならない.本書では,私にとって最も重要な新章で,さまざまな「振り返り考察」の方法を解説した.まだ完全に理解されず,認識されていないことは,効果的な「振り返り考察」を用いたシミュレーション教育が,とりわけ初めてシミュレーション教育を受ける周術期医療チームに行われた場合,単にCRMを改善する以上の効果をもつ点である.シミュレーション教育は,しばしばみられるチーム内の連携不備や,そこから派生する重大なインシデントにつながる“潜在的な誤り” を改善できる可能性をもっている.チームメンバーとの関係や連携状況の改善のためには,個々のメンバーの問題事象への関わりや,自分のとった行動やチーム連携に関わる行動の反省を,お互いにオープンに議論することが重要であるだけでなく,それらの議論を経て職種や職域を越えて連携する必要性の理解を深めていかねばならない.こうした状況は,教師と学生,あるいはインストラクター(ファシリテーター)と参加者の信頼関係に基づいた,自由で安心な討論の場,すなわち「振り返り考察」(デブリーフィング)によってのみ築かれていく.
心理的に自由で安心な討論の場を設け,本当に有効な「振り返り考察」を行うというのは,言葉で言うのは簡単だが実現はそう容易ではない.しかし,その重要性は想像以上に重い.学習はしばしば認知的行動(新しい知識を覚えることなど)だと思われがちであるが,自我同一性(self-identity;すなわち,自分はよい医師になれるか? よい看護師であるか? など)や感性(精神的に圧迫されていないか? 協力関係をつくれているか? など)を磨く場でもある.こうした概念は「振り返り考察」の章(第4 章)でより具体的に解説するが,それらの概念はすべて従来の教育学のみに基づくわけではない.シミュレーション教育や患者安全教育には,社会科学の理論や研究成果を取り入れる必要性も含め,まだまだ改善の余地がある.振り返り考察の進歩に最も貢献したのは,Argyris らによって提唱された,「個人と組織を軸にして不調和や問題発生のメカニズムや解決を説き明かす」というアクション・サイエンス(ActionScience:行動科学)概念の応用であり,これが本書にも登場する“debriefing withgood judgment”につながった.(これらの研究は私の所属するマサチューセッツ総合病院の医療シミュレーションセンターで行われたため,私の意見に偏りがないとは言い切れないが)基本的な考えは単純だが強力で,振り返り考察を通して,教える側と学習者の真の好奇心,追求心,自分の行動への内省心が高められる.最も重要なことは,「振り返り考察」を行えば,一緒に働き学ぶすべての個人を尊重しようと考え,また,まわりの人々もそれに応えて最善を尽くしてくれていると感じられるようになることである.彼らが間違えたり,期待した作業を遂行できなかったりした場合でも,まずは結果を受け入れ,なぜそうしたのかの理由を一緒に考える.こうした相互信頼と探究心を根づかせることで,シミュレーション教育は患者安全に大きく貢献する.
麻酔に関わる医療者は,初版をすでに手にとった人も含めて,本書をただ読むだけでなく読み込み知識を習得するべきである.また本書で取りあげた症例や対応の要点は(それらをどのように用いるかはさらなる検討は必要だが),読者の施設の実情に合わせて,緊急事態対処用のマニュアルに取り込まなければならない.もし私があなたの患者であれば,本書の原則が身についたか聞くことだろう.もし答が「Yes」でなければ,私は信用できる他の医療者に私の命を託すことにする.
ハーバード大学医学部麻酔科教授
医療シミュレーションセンター所長
マサチューセッツ総合病院麻酔・集中治療・疼痛管理科
Jeffrey B. Cooper, Ph.D
訳者補遺1:「デブリーフィング」を本書では「振り返り考察」としたが,これはシミュレーション教育の肝である.もともと軍隊などで行われる「簡略化した報告」といった意味の言葉であり,それとの区別を明確にするため,ここではカタカナ日本語を避けた.デブリーフィング(振り返り考察)がシミュレーション教育では単にフィードバックを意味するわけではないことは,本書を通じて理解されることと思う.
訳者補遺2:「Action Science」の訳を「アクション・サイエンス」として,不本意ながらカタカナ標記にしたのには理由がある.それは,ごく自然な翻訳語である既存の「行動科学」とは明らかに異なる概念であるためである.従来から使われてきている行動科学や行動心理学(behavioral science)が人類や社会全体に共通するような傾向(成人学習理論など)を扱うのに対し,アクション・サイエンス(Action science)では,より個別の,個人の行動の背景にある動機や組織の影響,メンタルモデルの解釈などを通して行動変容を促す方法を探るという要素が中心である.
訳者補遺3:「よい判断に基づく振り返り考察(debriefing with good judgment)」とは,マサチューセッツ総合病院で筆者らが長年にわたり行ってきた,① シミュレーション開始前に学習目的を明確にする,②「振り返り考察」で期待される内容を明確にする,③ つねに好奇心をもち参加者にフィードバックは与えるが,決めつけはしない,④「振り返り考察」セッションを,反応,分析,まとめの三部で構成するという4つの原則から構成される振り返り考察の手法である.
目次
Section Ⅰ.麻酔科における危機管理の基本原則
1.麻酔での動的意思決定の基礎
2.麻酔の危機管理の原則
3.麻酔の危機管理の教育
4.デブリーフィング(振り返り考察)
Section Ⅱ.麻酔管理における重大事象の目録
5.一般的な事象
6.心血管系に関わる事象
7.呼吸器に関わる事象
8.内分泌・代謝関連の事象
9.神経学的事象
10.医療機器に関わる事象
11.心臓麻酔関連の事象
12.産科麻酔関連の事象
13.小児患者での事象
Section Ⅲ.訳者附記
14.[日本版補遺]術中の麻酔科医交代/地震・広域災害
15.[日本版補遺]医療事故調査制度/周麻酔期看護師
索引
1.麻酔での動的意思決定の基礎
2.麻酔の危機管理の原則
3.麻酔の危機管理の教育
4.デブリーフィング(振り返り考察)
Section Ⅱ.麻酔管理における重大事象の目録
5.一般的な事象
6.心血管系に関わる事象
7.呼吸器に関わる事象
8.内分泌・代謝関連の事象
9.神経学的事象
10.医療機器に関わる事象
11.心臓麻酔関連の事象
12.産科麻酔関連の事象
13.小児患者での事象
Section Ⅲ.訳者附記
14.[日本版補遺]術中の麻酔科医交代/地震・広域災害
15.[日本版補遺]医療事故調査制度/周麻酔期看護師
索引
書評
安全な麻酔のために危機管理能力を修得するプロの麻酔科医の必読書
萬 知子(杏林大学医学部麻酔科学教室 教授)
麻酔科医に求められる資質として不可欠なのは危機管理能力である.一見,順調そうに見える麻酔管理のなかにも,潜在的な危険要因は存在する.それが顕性化せずに麻酔が終了すると,あたかも,麻酔の手順を覚えてさえいれば麻酔管理が行えるという錯覚に陥る.麻酔の本質を知っていればありえないことではあるが,現実の社会ではそのようなことさえ起きうる危険性がある.
手術室での麻酔科医の仕事をパイロットの任務になぞられることもできる.安全な飛行を行うには,パイロットは十分な知識と高い技術をもっているだけでなく,不測の事態に対応できる危機管理能力が備わっていなければならない.麻酔科医も同様に,豊富な知識と高度な技術を身につけているだけで危機対応ができるとは限らない.また,その対応力を養成するための危機管理の教育がこれまで系統だって行われていることは少ない.そこで,本書では,麻酔科医に特化した危機管理と教育について,理論的にまた実践的に活用できるよう構成されている.
危機管理の学習方法として,シミュレーショントレーニングの有用性は述べるまでもないが,効果的なシミュレーショントレーニングには適切なデブリーフィングを行うことが重要である.本書でもSection Iでひとつの章としてデブリーフィング法が解説されている.Section IIでは,シナリオの題材となるべき麻酔中の危機的事象について,麻酔科医が直面する状況を端的に示し,麻酔科医の思考回路に沿った順序で対応すべき項目がもれなく示されている.これらを盛り込んだシミュレーショントレーニングを行うことで,危機管理能力を修得できる.
本書は,麻酔管理のマニュアルとは一線を画した,プロとして,麻酔科医が安全な麻酔を行うための危機管理能力を身につけるための必読書である.英文原著の日本語訳の本書には,日本特有の項目も補遣されている.重要なポイントが短文で簡潔に示されており読みやすく,学習者の心に浸透する一冊である.
萬 知子(杏林大学医学部麻酔科学教室 教授)
麻酔科医に求められる資質として不可欠なのは危機管理能力である.一見,順調そうに見える麻酔管理のなかにも,潜在的な危険要因は存在する.それが顕性化せずに麻酔が終了すると,あたかも,麻酔の手順を覚えてさえいれば麻酔管理が行えるという錯覚に陥る.麻酔の本質を知っていればありえないことではあるが,現実の社会ではそのようなことさえ起きうる危険性がある.
手術室での麻酔科医の仕事をパイロットの任務になぞられることもできる.安全な飛行を行うには,パイロットは十分な知識と高い技術をもっているだけでなく,不測の事態に対応できる危機管理能力が備わっていなければならない.麻酔科医も同様に,豊富な知識と高度な技術を身につけているだけで危機対応ができるとは限らない.また,その対応力を養成するための危機管理の教育がこれまで系統だって行われていることは少ない.そこで,本書では,麻酔科医に特化した危機管理と教育について,理論的にまた実践的に活用できるよう構成されている.
危機管理の学習方法として,シミュレーショントレーニングの有用性は述べるまでもないが,効果的なシミュレーショントレーニングには適切なデブリーフィングを行うことが重要である.本書でもSection Iでひとつの章としてデブリーフィング法が解説されている.Section IIでは,シナリオの題材となるべき麻酔中の危機的事象について,麻酔科医が直面する状況を端的に示し,麻酔科医の思考回路に沿った順序で対応すべき項目がもれなく示されている.これらを盛り込んだシミュレーショントレーニングを行うことで,危機管理能力を修得できる.
本書は,麻酔管理のマニュアルとは一線を画した,プロとして,麻酔科医が安全な麻酔を行うための危機管理能力を身につけるための必読書である.英文原著の日本語訳の本書には,日本特有の項目も補遣されている.重要なポイントが短文で簡潔に示されており読みやすく,学習者の心に浸透する一冊である.