ブックタイトル治療 100巻 3月号

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概要

治療 100巻 3月号

314 Vol.100,No.3〈2018.3〉府の指導のもとで導入された「公衆衛生看護婦(public health nurse)」駐在制度である.保健婦養成は,5 ヵ月間の講習期間で行われた.カリキュラムは地域全体のアセスメントから地域の保健計画樹立技法をはじめ,各種の衛生教育および家庭訪問による個別指導,家族支援,集団保健指導や相談会,関係者との連携や地区組織の育成などである.保健所所属の保健婦が住民の身近な所に通常の勤務場所を定めて駐在し,担当地域のすべての住民を対象にして保健活動を行った4).この駐在制度では,医療や交通事情の悪い沖縄県の広い海域の小さな島々にも公衆衛生看護婦が配置され,効果的な活動を推進する手段となっていた5).2 医介輔制度 戦後の医師不足を補うため,琉球列島米国民政府は,軍隊で衛生兵としての経験を有する者などの医療業務経験者に対して医師助手(assistant doctor)という名称を与えて医療業務に従事させ,1951 年には,離島へき地限定の医師免許といえる医介輔(medicalservice man)の資格審査を施行,126人の医介輔が誕生した4).医介輔は,離島医療に貢献したが,資格には「一代限り」,「現地開業」などの条件があり,2008年に最後の医介輔の宮里善昌氏が廃業し,介輔制度は消滅した6).3 医師養成 医師確保のため,本土大学医学部留学制度が整備され,1952 年?1972 年までに1,352人が送り出されたが,研修先,医療機関の不足のため.沖縄への帰還率は30%にまで落ちた.この状況下で,1966 年にアメリカ政府は5 年計画で15 万ドルを計上,沖縄県立中部病院を研修病院にすることが決定し,1967年にハワイ大学から指導医を招いての臨床研修開始となった.その後50 年,約1,000 人の卒業生を輩出,その約70% が沖縄県で勤務している.公衆衛生看護婦,医介輔によって主に支えられてきた離島の保健医療だが,徐々に医師養成が進むなか,医師が赴任するようになった. 1978(昭和53)年,自治医科大学1期生が誕生,自治医科大学卒業生研修プログラムが開始された.初期研修2年間→離島診療所単独診療2年間→専門研修1年間(本島)→離島診療所単独診療2年間→専門研修2年間(本島),計5年研修,4年離島診療所単独診療のプログラムであった.その後,1996(平成8)年には,自治医科大学卒業生研修プログラムとともに,プライマリ・ケア医コースが自治医科大学卒業生以外の研修プログラム(初期研修2 年間→離島診療所単独診療1 年間,計3 年間)としても開始された.また,2006年には,日本家庭医療学会(現日本プライマリ・ケア連合学会)からプログラム認定を受けて,家庭医療専門医を育成することができるようになった.2016年からは16離島診療所のうち,すべてが沖縄県立中部病院のプログラムとなっている.また20人以上の家庭医療専門医を輩出している. 地域ケアの定義の1つに「公衆衛生アプローチに立脚し,地域の健康上のニーズ,健康に関する信念や社会的価値観に合わせ,地域社会による参画を保証しながら構築されるケ